紹介 ころぶところがる

ころぶところがる (少年サンデーコミックススペシャル)

自転車漫画ということで、自転車に興味ない自分についていけるかなと心配していたが、その心配を超越するような内容だった。ネタバレはしたくないが、玄奘がロードバイクを背景にして祈る扉絵をみたときは「マトモじゃない漫画」という確信を抱かせるものだった。

 自転車関係の雑誌に載っていたせいもあり、自転車や模型の素描は相当マニアック。黒田硫黄の趣味全開の漫画といえるだろう。この「熱さ」についていけるかどうかは読者次第であり私は何度も挫折しかかった。そしていつものように投げっぱなしのエンディング。読者を「いまのは何だったんだ」という心境へ放り出す。

 自転車関係では『茄子』のエピソードのほうがわかりやすいので、こちらから読んだほうがいいかもしれない。ちなみに『茄子』のしんみりする畳み方は読んだ中では一番好きである。

紹介 家畜化という進化

 

 ダーウィンの『種の起源』は家畜や家禽の多様性の話で幕を開ける。私たちの最も身近にいる生き物として、家畜は多くの人が興味を持つ対象だろう。そのルーツを探る話となれば面白くないわけがない。

 意外にも、いろんな家畜をさしおいてキツネから話が始まる。ベリャーエフのキツネの選抜実験は実に見事なもので、野生のキツネを順従になるよう選抜したら犬のような垂れ耳や巻いた尻尾が出てきたという。また、逆に順従でない方向に選抜したら、少し近づいただけでうなったり飛びかかったりする系統になったらしい(こっちの選抜は本当によくやったと思う!)。ドブネズミにも同じような実験をしたそうで、順従さを選抜したらかわいいドブネズミになったようだ。著者の神経生理学のキャリアのおかげで脳の働きについて図説があるのはありがたい。

 この話のキーワードは自己家畜化というプロセスである。この言葉の定義は読んだ限りでは明示されていないようだが、野生動物が人間の居住区の近くに住むことで(例えば餌を求めて)、自ら人間への順従さを選抜されにいく過程を指しているらしい。このプロセスの中で、ある環境でしか現れなかった従順性が選抜され続け、常に発現するようになったという説を紹介している(表現型可塑性の進化、ボールドウィン効果)。この説の是非はともかく、地元の図々しいキツネやクマを思うとさもありなんと思う。ただそうすると、家にいる昆虫・クモ類はなぜそれほど家畜化されて広まっていないのか不思議であるが、肝心な「食べる」という点でそれほどの利益がないのだろうか。

 とりあげられている動物は、キツネ、イヌ、ネコ、ブタ、ウシ、ヒツジ、ヤギ、トナカイ、ラクダ、ウマ、そしてヒトと多岐にわたる。簡略化した系統樹も豊富なので、ルーツや分類に興味がある人におすすめである。

 一方で、この本は少し難しい部分もある。表現型可塑性はともかく、ボールドウィン効果、遺伝的同化の説明はこれでわかるとはとても思えない(Wikipediaで調べちゃったよ)。もっとも前半の章では多少読み飛ばしても差し支えないだろう。

 また、最後の人間の自己家畜化の話ーーーつまり、人間が農耕や建築を通じて自分の環境を変えてきて野性を失う話ーーーはそれまでの動物の自己家畜化の話とずれているのではないか。少し言葉の定義があやふやになっていると感じた。

 個人的に私が一番不満なのは、昔の我が家のアイドル、愛らしい声のアイガモ(を始めとする家禽)が全く触れられていないことである。ぜひ続編があればこちらもお願いしたい。

 いやはや、本編と補足で約450ページ、註と引用文献100ページ(!)、大変な力作である。出版関係者には頭が下がる思いである。

紹介 招かれた天敵

 

 応用昆虫学の本でこれほど濃厚な本は読んだことがない。生物進化と生物多様性の観点から、生物的防除の有名な事例の背景と結果をじっくりと描いている。そのため、教科書の一覧表のような無味乾燥な内容ではなく、なぜそのような天敵導入がなされたのかについて時代背景を含めた全体像を把握することができる。

 レイチェル・カーソンの沈黙の春から始まり、ライリーのベダリアテントウ・プロジェクト、悪名高いイギリスのジャパニーズ・ノットウィード(イタドリ)、マングースの導入、染料をとるためのコチニールカイガラムシとウチワサボテンの導入(日本にも小笠原に導入)、さとうきび畑へのオオヒキガエルの導入、そしてそれらの野生化の影響が存分に語られる。また、それらの知見がニコルソン・ベイリーの差分型モデルにどうつながっていったのかを理解することができる。

 最終章である小笠原の固有マイマイを食い尽くすヤリガタウズムシの話は読者をディストピアに叩き落とすだろう。まるで嫌な結末のミステリーを読んでいるかのようだ。固有種の再生への物語が語られるが、それでも重苦しい読後感を残す。

 管理された害虫防除を目指して、近年は古典的な害虫防除へ回帰する様はなんとも無情である。自然界を理解しようとする研究の敗北とも受け取れる。それでも私達は考え続けていかなくてはいけない。大してききめのない天敵を規制せず分布拡大を許して固有種を大量絶滅させるプロセスは、思考停止の愚かさをまざまざと見せつける。

 生物を導入して害虫を防除する「生物的防除」が果たして「自然にやさしい」のかを——正直に言えば自分もそのような説明を安易に行うことがあるが——深く考えさせられる名著であり、天敵に関心を持つ者であれば必ず読むべき本である。

紹介 貴族探偵

 

専門的な本が続いたので今日は軽めに。推理しない貴族が探偵で、実際の推理はメイドや運転手が行うというもの。この著者はこういう変則的な話が得意だ。5篇のショートストーリーから構成されている。文庫の第一刷は2013年。

 さて、肝心の読後感はいまいち期待したものとは違った。やはり探偵小説は、探偵本人が推理してこそ爽快感が得られるものだという当たり前のことを再確認しただけだった。まあ、私もメイドが推理するのは嫌いではないが、最近だと女の子が推理する小説は山ほどあるしね。

 この著者は隻眼の少女のどんでん返しが強烈だったので注目しているのだが、それを超えるものがまだ見つかっていない。

紹介 昆虫の交尾は味わい深い…。

 

昆虫のペニスへの偏愛が感じられる本である。まさに昆虫【交尾】博士である。内容は理知的なもので、多くの昆虫で交尾にまつわる新発見を写真とともに淡々と述べているが、誰にでも真似できるものではないことは容易に想像がつく。相当な試行錯誤がないとこのようなきれいなデータにはならないだろう。本書に登場するYさんと著者が交尾の話で盛り上がる様子が目に浮かぶ。本書を読んで改めてペニスが熱いことを再確認した。変な意味でなく。

 著者が助教時代にハダニの挿入器(aedeagus)の多様性にも関心を寄せていたが、さすがに体サイズが小さすぎるということで実験材料に採用されなかった。確かにハダニの外見は専門家でも間違えるほどお互いに非常によく似ているのに、aedeagusの形はカーブしていたり異常に長かったり、あるいはほとんどなくて分類屋泣かせのものがいたりと多様性に富んでいる。本書で指摘されるように、挿入器(あるいは交尾器)が同定形質になっている虫は多いのだが、本書で書かれていることはダニ類でもいずれ解き明かされていくものと願いたい。

紹介 ネアンデルタール人は私たちと交配した

 

 ネアンデルタール人のゲノム解析でノーベル賞を受賞したペーボの著書。2015年の著書なので今はさらに進展していることだろう。

 もともとエジプト考古学に興味があったそうだが、その進展のなさに失望して医学の道に進み、そこから古代人のゲノムを復元する方向にシフトした経緯が赤裸々に記されている。当初はPCRはなくバクテリアにDNA断片を取り込ませて増幅させるところからスタートした研究生活だったが、最終的には次世代シーケンサーを駆使して細かい推定をするようになった経緯が書かれており、その感動を追体験できる。そうして最終的にはネアンデルタール人と現代人が中東で交配した形跡を見つけ出すのだ。最終章では、デニソワ人とメラネシア人との交配についても記入され、交配がいたるところで起きて遺伝子流動が起きていたことを物語る。つまり、我々のゲノムは絶滅した複数の人類のものが二次的に混合したパッチワークともいえるだろう。

 さて、わたしが驚いたのはペーボの行動力と変わり身の早さである。考古学の歩みが遅すぎると見るや医学生に転身し、そのラボでミイラの研究をするという破天荒ぶりである。また、ラボで契約している企業の技術では研究の歩みが遅いと見るや、(それまではほめちぎって交流していたのに)別の会社にサクッと変えるというドライさである。また、意外にもけっこう毒舌である。「彼は家柄とオックスフォード卒という学歴から、傲慢な俗物ではないかと心配した」だの、「学会に行ったところでどうせ高名な老学者たちの侃々諤々の議論を聞かされるだけだろう」だの、「私の発表が聴衆をひきつけたから、彼(次の発表者)は大変だろうな、と少々優越感を覚えていた」だの、ものすごい自信である。

 あとは、投稿する雑誌についてサイエンスかネイチャーで迷ってサイエンスにした、とかサラリと書いてある箇所が至るところにあって感覚が麻痺しそうになる。編集部への根回しやアプローチも赤裸々である。

 

 いやはや、帯にはおだやかな微笑みをたたえる初老の紳士が写っているが、イメージと違ってかなり濃厚な体験を重ねてきた人物だということがわかった。ノーベル賞をとるような人はかくあらん、という感じである。

紹介 文にあたる

 

文にあたる

文にあたる

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 論文がアクセプトされても、最後の一仕事となるのが著者校正である。これが忙しいときに限って着弾して、48時間以内に返送してくださいと来る。誠に腹立たしい。

 そういうわけで、いままで校正という仕事について考えたことはなかったが、この現役校正者のエッセイを読んで見方が変わった。単に文字の正誤に留まらず、背景にある事実のウラを取ることも大事な仕事なのだと。そしてそれは半端なく大変なことだろう。誤りを見逃すのは「落ちる」と言ってぞっとするらしい。

 だいたい作家は思いつくまま筆を走らせるわけで、それを一つ一つチェックしていたら普通は身がもたないはずで、それをこなせる人が校正者として生き残るのだろう。

 ここまで書いて、本書に照らし合わせて自分でも真似事をしてみると、

  • 最後の一仕事→最後の仕事?(用例確認)
  • 着弾→(用例確認)
  • 48時間以内に...→カギカッコに入れるか
  • 留まらず→(漢字確認)
  • 背景にある事実のウラを取る→ウラを取る
  • 大事な仕事なのだと→大事な仕事なのだ
  • ぞっとするらしい→(記述を確認)
  • それを一つ一つ→文章を一つ一つ
  • 本書に照らし合わせて→本書を参考にして

......嫌になってきた。自分の文章でもこの有様だから、他人の文章の校正は本当に苦労するだろう。

 凡人には無理なこの世界。このエッセイは校正の奥深い世界を面白く提示してくれる。細かいところまで神経の行き届いたおすすめの一冊である。

紹介 武器を持たないチョウの戦い方

 

 実験材料としてチョウはとにかく難しい。行動圏が広いから野外では継続的に研究できないのが普通である。たいていの人はモンシロチョウやイチモンジセセリなど観察がしやすいものを使うところだが、筆者はあえて樹林に赴き野犬と闘いながらゼフィルスの行動を追いかけるという並々ならぬチョウへの思い入れがある。自身の経験から、研究の秘訣として十分な予備観察や下準備の重要性を説いている。

 さて、この本の真髄であるゼフィルスのオス同士の「争い」を説明する「汎求愛説」であるが、私も学会で発表を伺ったときあまり理解できなかったことを覚えている。というのも、内容はあまりにあっけないもので、この議論は・・・成り立つのか?と感じたから。もっとも、それは多くの研究者も同じだったみたいである(p.188-)。

 チョウには武器がないので従来の持久戦モデルは使えない。汎求愛説の肝はひとことで言うと、オスは相手の性別がわからず、飛んでいるオスにもメスにも見境なく求愛することである(p. 173-)。相手がメスならば交尾に至るだろうが、オスの場合はいつまでも交尾に至らないのでお互いの周りをクルクルといつまでも飛びつづける。これが「縄張り争い」の正体である、と。

 私が理解できなかったのも無理がない。縄張り争いはそもそもなかったという「珍説」がすぐに受け入れられるはずもなく、論文もリジェクトを重ねたという。長年のフィールドワークの経験を凝縮した上で、「オッカムの剃刀」によって余計な要素を削ぎ落とし、ここまでシンプルな説にするプロセスには爽快感を覚える。

 

 なお、私の担当する専攻の野外実習の時、著者も偶然植物園にいたらしい。ここは父方の出身地らしいが、かくも虫屋は神出鬼没であると思った。

紹介 ようこそ地球さん

 

 

 紹介するまでもなく星新一のショート集。世界観もさりながら文章のスピード感と無駄のなさに感心する。時代のせいか本書は陰鬱なストーリーが多く読み進めるのが辛かった話もあるけど、なんとか読み下した。昭和36年までの短編を集めただって?そんなに前の作家な気がしないけど。

いくつか好みを挙げるとすれば、

不満

最後の事業

処刑

あたりかな。とにかくほとんど全てバッドエンドなのでどれということもない気もする。とくに、「不満」は叙述トリックが見事で騙された。

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牧野植物園の温室 10/7

 

職場復帰

 六月上旬から八月いっぱい休暇をいただきました。ガッツリ体力を削られました。まだ全く本調子ではないですが(今日のPCRでも分量間違えまくり)、ぼちぼちやっていこうかと思います。
 最近、自分は本当はなにがやりたいんだろうと考えます。ともかく、年末のNZの学会は本当に楽しみにしているので、それに向けた準備をしましょう。