紹介 津田梅子

 

 正直なところ津田梅子は津田塾の創始者という程度しか知らなかったが、この本でだいぶ考えが変わった。生物学者としての素養を持ち、染色体地図のモーガンの薫陶を受けて共同研究をしており、アカデミズムへの道に誘われながら固辞して帰国して塾を設立した経緯は華々しいものである。岩倉派遣団から10年もブリンマー大学にいたせいで、その後も日本語はあまり上手には話せなかったそうだが、日本とは違い男女平等の進んだアメリカでの生活は刺激的だったに違いない。逆に封建的な日本社会はひどく生きづらかったことだろう。

 ブリンマー大学は良妻賢母の教育ではなく、学術でも活躍できる女性を育成することに力を入れていた。おたまじゃくしの第一分裂のときにすでに左右性が決定されているという萌芽的研究をしたのがモーガンと津田梅子であるというのは驚く。大学から残るよう声がかかったのを蹴ったのは何とももったいないと思うが、本人なりの使命感があったのだろう。

 帰国後は生物学を専攻したということすら限られた人にしか明かさなかったという。東大の箕作先生とは多少の交流があったそうだ(箕作先生は卵寄生蜂「ミツクリタマゴバチ」で知られる)。だが、なぜか結局アカデミズムに戻ることはなかった。

 津田梅子の伝記が出版されるにあたり、モーガンはお祝いの言葉を述べている。「あなたはなんと偉い人になったのでしょう!」という褒め言葉だが、多少の皮肉を感じてしまう。津田梅子が日本に帰らずにアメリカで発生学者となる世界線を見たかった気もする。もちろん、その場合は日本の女子の学問の間口は狭まっていたわけだが・・・。